上品の十善三界を超過して無漏道を得、この中甚深の縁起に達し
て無師自覚す。大悲萬行世界海を尽し、衆生海を尽くし
て我が行願の所となす。 「十善法語」慈雲尊者
生とし生ける物に慈愛の心相応す。この慈愛増長すれば必ず
仏法に信を生ず。この信心増長すれば必ず平等性なることを知る。
「十善法語」慈雲尊者
内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声という。
響きは必ず声による。声すなわち響の本なり。声おこって虚し
からず、かならず物の名を表するを、号して字という。
名はかならず体を招く。これを実相と名づく。 「声字実相義」空海
問答による決着
問い。二乗(声聞、縁覚)の人は個体存在の無我は覚っても
存在を構成する物に対するとらわれがあるから、真にめざめた
ものとなることはできぬと、さきに説かれた。
ところがいま五相成身、三密などの一定のかたちをとった
修行方法(有相)を設けて、悟りを求めようとする心を修練
するのは、やはり物に対するとらわれに基づくもののように
思われるけれども両者にどのような区別があるか。
答
要するに、二乗の人は存在を構成する物にとらわれる執着があるから
悟りを得る為にはほとんど無限に近いほどの時間を経過しなければならない。
それゆえ真言の実践者はこれによってはならぬ。真言の実践者は個体存在
に対するとらわれと存在を構成する物に対するとらわれとのうえの、どのような
わずかな迷いも破り、真理の智慧を開いているが、無限の過去より我等凡夫
と仏とを隔てるかすかな迷いがあるために、仏の有するあらゆる智慧の中の
最も優れた智慧(一切智智)を身に着けることが出来ない。。このかすかな
迷いを取り除く為に決意して三密行を求め、五相成身観の次第を実践して
身に着け、我々の肉身のまま直ちに仏のくらいに悟り入る。すなわち
この悟りの境地(三摩地samadhi)は諸仏の自性たる現象を超えた絶対の
理法に達し、人格化された宇宙的な永遠の理法(理法身)を悟り、
宇宙法界の本体である絶対智(法界体性智)をあきらかにし、大日如来の
自性身(法身)、受用身、変化身、等流身、を完成するところのものである。
だから、こうした瞑想を行うべきで、「大日経」悉地出現品には「悉地(悟りの完成
siddhi)は菩提を求める心より生ず。」と言っている。また「金剛頂瑜伽経」
によると「一切義成就菩薩、初めて金剛座に座し無上道(無上の悟り)を
取証して、ついに諸仏のこの心地を授くることを蒙ってしかしてよく果を
証す。」とある。
そもそも今日の人も、もしもこころが決定して教えの通りに修行するならば、
即座に、瞑想の境界は現れて、ここに本尊(大日如来)の身を完成する。
だから「大日経供養次第法」に次の様に説く。「若し勢力の
広く増益するなくんば、法に住して、ただし菩提心を(悟りを求めるこころ)
を観ずべし。仏、この中に万行を具して、浄白純浄の法を満足す」と。
菩提心を讃えていう。
若し人仏慧(ぶって仏の悟りの智慧)を求めて、
菩提心に通達すれば、
父母所生の身に、速やかに大覚(偉大なる悟り)の位を証す。
[「人間の種々相 秘蔵宝鑰」宮坂宥勝著より]
あめつち
声もなく 香もなくつねに 天地は
書かざる経をくりかえしつつ
「二宮尊徳」
況や復天地万物はわが身と同体なり。一切衆生は我が体と一体なり、
然るを隔別の思いをなして愛憎の見を異にするは猶己が右足を愛して
左足を憎むにことならず。 「釈雲照 十善戒和讃略解」
自ら戒法護持する人に非らざれば戒法の尊重なることは知られざるなり、
こいねがわくは本戒護持の諸賢、深くこの因果応報の真理、諸法無我の実理に
安住して撥無因果、断善根の衆生となることなかれ。仏法豈他あらんや
因果応報の真理此れなり。十善豈他あらんや、この応報真理の物に顕れ
たるの活動力のみ 「釈雲照 十善戒和讃略解」
愛染明王 聖運寺蔵