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問い1 真言宗は他力本願ですか?
答 自力でもあり他力でもある加持力です。心に仏を思い
身に印(合掌)を成し口に真言を唱える事によって本尊の三密と行者
の三密が相応するといい加持とは「仏日の影、衆生の心水に現ず
るを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持という」と弘法大師
はその著書「即身成仏義」の中で述べている。心をこめて祈ってご
らん、きっと本尊様が救いの御手を垂れて下さるでしょう。
問い2 現世利益って胡散臭くないですか。
答 「人事を尽して天命を待つ。」といわれるようにあらんかぎりの
努力はした上で神仏に諸願成就を祈ることは大切なこと。
自分だけの幸せを祈る人もそのうちにあらゆる人の幸せを祈り始め
るでしょう。あなたの目の前のパソコンだって人類の英知の結晶
です。今日食べたパンも大勢の人々の労力と天地の恵みがこもって
います。こんな話があります。
ある非常に熱心な信者の信仰心に神仏は憐れみその願いを
一つだけ叶えてやろうと言われた。信者は「願わくば孫たちとと
金の皿でご飯が食べられます様に」と祈った。一つの願いで
子孫繁栄と、金の皿で食事ができるような大財産をものにした
わけだ。現世利益は世俗的限定的な欲望を満たすことを目的とするので
有相の悉地とよばれ、一方絶対の世界、正しい智慧の獲得を達成することを
無相の悉地といい真言密教はいうまでもなく無相の悉地を
究極の境地とみなす。 (参考文献 松長有慶著 密教)
問い3 曼荼羅とは何ですか。
答 神仏のネットワーク概念図 インド チベット 日本の
密教寺院で奉られている。理を表わす胎蔵と智をあらわす金剛界
の曼荼羅がありそれぞれの仏や神(天)のエネルギー
をそのまま発散している。また、曼荼羅の前に修法する行者自身
もこの中の1尊でありそのエネルギーは宇宙全体と等しくなる。
しかし行者が行法を行わなければエネルギーは出てこない。
信者や行者が全身全霊をもって其の諸尊の徳を讃え祈願しなくては
鑑賞用にただ美術館に掛けていたのではもったいない。合掌
胎蔵曼荼羅
慈悲を表わす。諸仏は蓮華座にすわっている。大日如来の理(客体的なすがた)
慈悲はかくのごとく広大無辺である。言葉で表現出来ないので
真言で のうまくさんまんだぼだなんあびらうんけん。合掌
金剛界曼荼羅
九会曼荼羅ともいう。大日如来の智(主体的なすがた)をあらわして
いるが弘法大師は理智不二を説いている。悟りはかくのごとく
広大無辺である。おんばざらだどばんじゃくうんばんこく そわか 合掌
問い4 即身成仏とはどういう意味ですか。
答
真言密教では我の功徳力、如来の加持力、法界力
が備わって即身成仏が成就される。
功徳力とは三宝に帰依し十善を修行する行者の徳であり
加持力とは「仏日の影、衆生の心水に現ず
るを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持という」
本尊大日如来は曼荼羅に表わされているようにあらゆる生命体
非生命体、標識言語、象徴にその徳が備わっている。
ありとあらゆる能力、技術、教義、道徳、宗教、倫理
は人格化されあるいは三昧耶形としてシンボル化
され曼荼羅に属し其の本尊の三密と行者の三密が
相応するが故に即身成仏という。
頌にいわく
六大無碍にして常に瑜伽なり 四種曼荼各々離れず
三密加持速疾に顕る 重々帝網なるを即身となづく
十巻章 即身成仏義より
問い 十住心の異生羝羊心とは
答え
いつの時代も善人と悪人がいる。
「迷える者は善悪が分からず、道徳的因果律があることを信じない。
ただ目前の利益だけ見て、どうして地獄の火を知ろうか。
十悪をつくって恥じることなく、いたずらに実体的な自我ありと論じている。
この迷いの世界に愛着していて、どうして煩悩の鎖を脱れることができようぞ。」
と弘法大師は著書 秘蔵宝鑰のなかの異生羝羊心(十住心の中第一)で述べられ
次の第二住心へ発展すべき者であるとする。つぎに「物には決まった性質はない。悪人も機縁に巡りあえば素晴らしい人になろうとする。愚かな者もまた愚かなままでいるわけではない。ゆえに本来のさとりが内にもよおし、目覚めた者の光が外に輝き出せば、たちまちに自らの欲望を抑えて、しばしば他の者に与えている。中略 そして善き行為の不十分なのを反省し、悪しき行為はこれを恐れいましめる。」ともいわれている。
問い 瑜伽とはなんですか。
答 瑜伽とは梵語ヨーガ(yoga)の漢字化でヨーガを意味します。
平等の境地と訳されます。ヨーガとは結びつけるという意味も有ります。
大日如来は以下の三身を以って衆生を済度する。
自性身は地、水、火、風、空、識(六大)によって象徴される宇宙生命の
人格化されたもの。受用身は大日如来が自らの悟りを享受するすがた。
変化身は菩薩、二乗、凡夫のために変幻する大日如来。
等流身は、人、天、畜生、などの救済の為にそれぞれに応じた姿をとって
顕れる大日如来。
大日如来御自身のヨーガは精神世界(金剛界)物質世界(胎蔵)の
不二を瞑想されその力でこの現象界が現れています。
素晴らしい感動 愛 法悦 は如来の自らの讃え(自受法楽)として
顕れます。また輝きをいっそう顕著にさせている暗い我執、尊大さ、
怒り、などのヨーガの障害になるものの制御抑制を求めます。なぜなら
衆生すべてが困難を克服してヨーガを手段として至福を得て欲しいからです。
バガバットギーターに「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己を制御し、
音声など感官の対象を捨て、また愛憎を捨て、人里離れた場所に住み
節食し、言葉と身体と意を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲
を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、(私のもの)
という思い無く、寂静に達した人は、ブラフマン(至上我)と一体化する
ことが出来る。」さらにつぎのようにとかれている。
「ブラフマン(至上我)と一体になり、その自己が平安になった人は、
悲しまず、期待することも無い。彼は万物に対し平等であり、私へ
の最高の信愛(bhaktiバクティ=敬信)を得る。
信愛(バクティ)により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、
私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。
私に帰依する人は、常に一切の行為をなしつつも、私の恩寵(おんちょう)
により、永遠で不変の境地に達する。
心によりすべての行為を私のうちに放擲し私に専念して、知性のヨーガ
に依存し常に私に心を向ける者であれ。
私に心を向けて入れば私の恩寵によりすべての苦難を越えるであろう。
もし我執により、(私のおしえを)聞かないならば、あなたは滅亡するであろう。」
(バガバットギーター上村勝彦訳 岩波文庫より)
さて「マハーバーラタ」12.189.8以下では、ヨーガの行法としての低誦(japa)
の実践に関連して、意の統一と感官の制御が説かれる。そして更にその予備的な
法として、真実(satya)聖火の堅持 恭事 静慮 苦行 克己 忍耐 無恨
節食 対象の放棄 寡黙 寂静 を実践すべきことを説いている。さらに、これらの言わば倫理的徳目の実践が、ヨーガの行法と密接に関連して説かれる例を、
「マハーバーラタ」12巻232章において認めることができる。すなわち、その
二偈で。ヨーガ行を覚(buddhi)と意(manas),及び感官の一境性とし、第十偈
以下で、このために実修すべきものとして、次のごとき徳目をあげる。静慮 読誦 布施 真実 慚愧 廉直 忍辱 浄潔 浄食 感官の制御 これらによって力(tejas輝き)が増大し、また罪悪が滅する。またかれの一切の目的が成就し、知(vijnana)が生起する。一切の存在物に対してたとえ利益を得ようと得まいと、平等に振る舞い罪悪を除き、力あるものとなり軽き食を取り感官の制御を成し欲愛と忿を抑制して、ブラフマンの階位に入らんと欲すべきである。意と諸々の感官の一境性をなし初夜と後夜とに自身で意を執持すべきである。この人の五感官のなか、1つの感官でもその制御が不完全であればそのときその人の慧は恰も皮袋の底から水が漏れるように、流れ出る。とする。
中略
つまりこの自己と超越的世界との一体視こそヨーガ行者の最も避けなければ
ならないことなのである。ここにわれわれは古いウパニシャッドに見られた代表的な神秘思想たる「梵我一如」の体験、あるいは中古のウパニシャッド以来行われたヨーガの行法による個人我と最高我との合一の主張に対する厳然たる反駁を読み取ることができる。すなわち、ヨーガのある一派によって主張され続けてきた神秘体験における絶対者への融合の思想を、「ヨーガ.スートラ」では排斥しているのである。
「ヨーガ.スートラ」の立場からすれば全く次元を異にする自己と絶対者との
合一、融合は有り得ずその様な合一の実体感はなお心理作用の領域に属するもの
で、我見すなわち誤れる自我意識に他ならない。ヨーガ行者はこのような境地
に留まることなく、さらに深い体験の境地を啓発しなければならない。その
ためにその階梯は「唯我見」と名付けられたのである。
「古典ヨーガ体系の研究 高木言申元著作集1 192項より」
わたしは自己を本尊様の召使いであると思いたい。朝は仏飯とお茶の御供え
し 香 花 燈 塗香を供養し本尊觀で曼荼羅の本尊を瞑想しそのお徳を讚え
帰命し恐縮ながらも願意を述べる。
住職記
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